武器なき斗い(1960年 日本)
- kayukawa-clinic
- 4月16日
- 読了時間: 2分

愛知保険医新聞刊
1923年、関東大震災が日本の経済に大打撃をあたえた直後、時の政府は治安維持法で労働者階級の弾圧に乗り出す。同志社大学の生物学者山本宣治は新しい性教育の必要性を痛感し、産児制限を庶民に説き始めるが、大学当局や政府に妨害を受ける。1925年ソヴィエト労組代表の来日を機に、政府は多くの自由主義的な学生や労働者を検束した。山宣も大学を追放され、労農党の運動に加わる。佐山村農民組合争議の惨状を目のあたりにして、生物学者としての考えを世に広めるには、まず政治を改めねばならぬと悟る。妻や息子たち、それに生家である料亭花やしきを経営する両親からも理解されていた。佐山村争議で山宣は小作人さき・清母子や共産党員本田、彼に好意をよせる娘のぶなどを知る。やがて金融恐慌がやってきて、支配階級は侵略戦争を起した。1928年、激しい弾圧下で労農党から立候補した山宣は代議士に当選した。三月十五日の労農階級弾圧一斉検挙で、山宣は決起する。治安維持法の更なる改悪を目論む政府に、山宣は本会議場での反対演説をおこなう決意を固めた。その日を目前にした夜、彼は神田の光来館で右翼の兇刃に倒れた。享年四十歳であった。
世界大恐慌の1929年のその日から長く重苦しい年月を経て、侵略戦争は終焉。敗戦後、赤旗に囲まれて執り行われた山宣の命日に、人々は山宣の強靭な生き様に魂を揺さぶられた。「山宣独り孤塁を守る」時代から八十年。世界第二位の軍隊と駐留米軍の暴力装置を射程に入れて、平和憲法を守る「九条の会」に国民の過半数を獲得する運動が急務となっている。
Comentários