朝日新聞朝刊 1999.10.2
定年が迫り、経営陣に入る夢も消え、がく然と肩を落とした紳士が深い絶望と抑うつを訴えて外来を訪れた。娘たちが嫁ぎ、夫婦水入らずで温泉めぐりでもしようと考えていた矢先に夫を心筋梗塞(こうそく)で亡くした妻は、パニック発作を伴ううつ状態で「生きる望みをなくした」と涙ながらに訴えた。 五十代以後は仕事や家庭の責任、社会的、経済的負担がどっとのしかかる。体力の衰えや病気、先人との死別、子供の巣立ちなど、喪失が相次ぎ、自己を保つのが困難になる。中年期の危機はいくら備えても回避は難しい。 映画『ミルドレッド』(1996年)は、『こわれゆく女』で分裂病の妻を演じたジーナ・ローランズが中年期の女性の危機を演じた。夫を亡くし、年金で暮らしている。結婚した息子は一緒に暮らしたがらず、娘は家出する。 人生の目標を見失いがちになるが、隣家の子供の世話を引き受けて生き生きし始める。子役は『スターウォーズ エピソード I 』でアナキン少年を演じたジェイク・ロイドだ。 しかし、本当の母親には勝てない。初孫の世話をしてもらおうと、一転して一緒に住もうと勧める息子の申し出を断り、自分の人生をやり直そうと家を売って一人旅立つ。 ジョニー・デップがFBIの麻薬おとり捜査官を好演した『フェイク』(97年)では、アル・パチーノがマフィアという縦社会で先の見えた中年の悲哀を演じた。家ではジャージー姿。強がりながらも、妻の姿が見えないすきに、ただ一人の子分になったデップに二百ドル借りる姿が泣かせる。企業社会でうごめく日本の団塊の世代の心理が二重写しになる。 中年の紳士は定年まで会社に残ることに決めて、退職後に居酒屋を始める構想を抱き始めた。一人になった女性は、親兄弟の元には帰らず老人ホームに入居しようと考えている。中年期の危機での自殺だけは防止したい。ドラマチックではなくても、危機の乗り切り方はいろいろある。