朝日新聞朝刊 1999.10.16
難関の医学部入学という目標を達成して、すっかり無気力になった青年の心をとらえたのはマージャンだった。それなりの闘争心もわき、知的な駆け引きもある。絶えず脳を刺激し、脳はいつまでも満足しないので、やめられない魅力と魔力がある。 阿佐田哲也の『麻雀(マージャン)放浪記』にあこがれて、新宿で一人打ちに興じていたら、医学部を退学寸前になっていた。勝った金で車を買ったのが自慢だったが、先に卒業した同級生がまぶしくて仕方がない。「医者としては二流だが、雀士としては一流」などと自己愛を保とうとするが、本業で自己実現できない不全感はぬぐい去れなかった。精神科医の笠原嘉氏が「アパシー・シンドローム」と名付けて注目した症状だ。学業や仕事をそっちのけに、ほかの何かに熱中してしまう症候群だ。 ギャンブル依存は、前にも取り上げたが、今回のオーストラリア映画『オスカーとルシンダ』(1997年)は、十九世紀半ばの英国とオーストラリアを舞台に、お互いのギャンブル熱が高じて、あと一歩で愛を確かめ合えなかった病的賭博(とばく)者の男女の物語だ。 レイフ・ファインズ演ずる伝道師オスカーは、神学校当時から競馬に手を出し、あらゆるかけにのめり込む。もうけを神にささげていることを自分への言い訳にしているが、焦りもある。公開中の『エリザベス』で話題のケイト・ブランシェット演じるルシンダも、夢だったガラス工場を手に入れ、カードやサイコロをやめられなくなる。そんな二人が出会う。最後は「ガラスの教会」を建てられるかどうか、互いの全財産でかけをした。二人がかけにのめりこむ過程の描き方は、軽快でしゃれている。 退学になりかけた青年はかろうじて踏みとどまり、医学部の実習に出席しはじめた。酒やセックスも含め、脳の快楽中枢を刺激する営みとの上手な付き合いは、難しい。